2022.12.28 Omiaiレポート

煩悩の果てにある恋愛と結婚~①真言宗のお坊さんに聞きました!

全3回に渡ってお届けする「煩悩の果てにある恋愛と結婚」、今回は第1回です。
今年もあとわずか。恋活・婚活で結果を残した人も、そうでなかった人も、一端休んで仏さまの言葉に耳を傾けてはどうでしょう。

ここでは現役のお坊さんでありながら、東京・四谷「坊主BAR」のマスターでもある藤岡善信さんに、ご自身の経験を踏まえ、恋愛と結婚について語っていただきました。
知らず知らずのうちに固く閉ざしていた恋愛&結婚観のチャクラが開くかも!?
2022年の世相を表す漢字は「戦」に決定しましたが、Omiai Reportでは「恋愛漢字」を発表します。

わがままを言わず、清濁併せ呑むことから良縁は生まれる

婚活成功のカギは、門戸を大きく開き、多くの人と接するように心がけること

藤岡善信(ふじおか・よしのぶ)

浄土真宗本願寺派僧侶・坊主 BAR 店主。
岡山県出身。幼少の頃に母親が出家し、熱心な信仰者の祖母に引き取られ、そこで念仏のご縁を授かる。
vowz-bar.jp

ー坊主 BAR の店主として、どんな恋愛の悩みを相談されることが多いですか?

バーは 20 年以上やっていますから、その時の社会の変動とともに変わります。
例えば東日本大震災以降は結婚したいという相談が急増したり、なぜかコロナ前は不倫の相談がめちゃくちゃ多かったり。

あと、出会いのきっかけを聞くと、最近はマッチングアプリと答えるお客さんが多いですね。マッチングアプリも一つのご縁の繋がりのためのツールであると思います。

ー恋愛を含めて、煩悩まみれで卑しい心を持っていても良い恋愛や結婚はできますか?

やはり引き合わせていくものですから、卑しい心を持った人となら恋愛や結婚ができるかもしれません。
そういった意味では品行方正が一番。長年色々と見させていただいた中で、自分の身の丈にあったところで、無理なく正しく生きていくことが幸せに繋がるということに気づきました。

だから相手選びもそう。ずっと良い出会いがないという人には、本当は出会っているのに、そこに心を開いていなかったり見逃していることがすごくあるように思います。
仏教で言ったらこだわりを捨てなさいということ。なかなか難しいですが、自分にはこういう人がいいという思い込みを捨てるということです。

昔であれば結婚って親が決めていたじゃないですか。個人的にはあの方法がすごく良いと思うんです。第三者が良いと思った人を連れてくれば思い込みも生まれませんから。

ー良い恋愛をするために必要な仏教的習慣があれば教えてください。

自分にとって都合のいいものばかりにときめかないことです。これをすると足元をすくわれます。
苦手、嫌い、好みの顔じゃないなどと言った理由で切り捨ててしまう人は、結局いいものを得られないと思います。

いい出会いというのは清濁併せ呑むといいますか、もっと広げたところにこそありますから。仏教の言葉で「挨拶(あいさつ)」という言葉があるのですが、挨拶というのは相手の心を開かせるために切り込んでいくという意味があります。

どなたでも平等に挨拶ができる人になれるということですね。また「門」というのも仏教用語があるのですが、これは門も決めなければどこまでも広がるというような意味合いがあります。

お坊さんも同じ人間

どんな人も蓋をあけてみなきゃわからない

ーそもそもお釈迦様は、恋愛することを良しとしているのですか?

愛という言葉は、仏教で執着という意味なのです。だから欲の根源みたいな大きな存在で、お釈迦様(親鸞)もやはり悩まれたんです。
20年間比叡山で修行をされたのですが、結局は女性を求める心がなくならなかった。

で、どうすればいいか法然(親鸞の師)のもとを尋ねた結果、煩悩を認めてもらえて、仏教界で初めて結婚をしました。
個人的に思うのは、結婚って楽しいことばかりじゃないと思うんです。だから坊さんとしての立場から言わせていただくと、結婚をするということは、相手と苦しみを分かち合えるということで勉強になるのではと思っています。

苦しみが多ければ多いほど、喜びが多いとも感じています。お互いが成長するようないい恋愛であれば素晴らしいですが、こればかりは本当ご縁ですからね。これはお釈迦さんも言っていて、一番いいのは尊重し合える夫婦になりなさいということです。

ー仏教の中で、“出会い”とはどのように解釈されていますか?

これは宇宙の真理であって、出会いも別れもそれが苦しみの一つであるとお釈迦さんは「愛別離苦(あいべつりく)」という言葉で表しています。
愛する者と別れなきゃいけない苦しみがあり、その逆に「怨憎会苦(おんぞうえく)」と言って、嫌な人と会わなきゃいけない苦しみもあると。
“ 出会い ” はどちらにしても苦しいというわけです。

ーちなみに、お坊さんはどこで異性と出会うのですか?

昔はお寺同士でのお見合いが多かったそうですが、いまは昔と違って大学にも通いますし、社会人になっても普通の生活をしている人が多いから、一般の人とそれほど変わらないと思います。
コンパをする人もいれば、それこそマッチングアプリで婚活をしている人もいます。精神的な安らぎを求めてなのか、震災後はすごく人気がありました。

お坊さんっていつも冷静で優しそうというイメージからだと思いますが、実際に蓋をあけたらわかりませんから(笑)。お坊さんといえども同じ人間ですから、煩悩の塊のような人も多いんじゃないかなと思っています。

坊主BAR

● 住所 /東京都新宿区荒木町6 AGビル2F
● 電話番号/ 03-3353-1032
● 営業時間/ 19時00分~25時00分
● 定休日/日曜・祝

SNSという泥沼の中

恋愛という花が咲くこともある

ー仏教界で SEX という行為自体はどうですか?

欲にふけってしまうという意味では、あまりよいものではありません。
ただ性行為自体、本来はお互いに高め合った者同士が愛し合えば、素晴らしく尊いものではないかなと思います。エロいものとか汚らしいものというふうに見るからだめなわけで。

あともう一つ私が思うのは、性行為はとても危険なものでもあるということ。性行為はエネルギーの交換でもあるので、そこを踏まえて臨んだ方がいいと思います。相手によっては本当に運勢が変わっていくものですから。

ー SNSだと、自分の幸せを他人に委ねることが多くなっているように感じます。
例えば美味しいものを食べて「美味しかった」という気持ちも、写真をアップして誰かに「美味しそう」と言われないと成立しない。そういった承認欲求についてはどうお考えですか?

あれは苦しいと思います。ああなればなるほど本当に苦しいでしょう。
心が疲弊しきっているから、画面に♡(ハートマーク)がついてなかったりすると、心底がっくりしていると思います。

お釈迦さんがよく言われているのは「喉が渇いた旅人が海水を飲むがごとし」ということ。喉が渇いたからって海水を飲めばもっと喉が渇いて、もっともっと欲しくなります。
やっぱりもっと認められたいって、やればやるほど喉が渇いてドツボにはまっていくという…。「少欲知足(しょうよくちそく)」というのが仏教の基本で“足るを知るということ”、これなんです。

「今のこの瞬間が幸せ!」で終わればいいんです。仏教にはいくら食べても満足しない餓鬼がいる餓鬼道という世界があるのですが、承認欲求の強い人は、まさに餓鬼の世界に落ちていますね。これを脱出しないと幸せにならないと、お釈迦さんも説いています。

もちろん SNS を否定するつもりは毛頭ありません。
煩悩の塊のようなそういう世界も、うまく利用するというのが仏教の教えです。蓮の花の思想じゃないですけど、やはり泥沼から美しい蓮の花が咲くということですから。

▶NEXT:煩悩の果てにある恋愛と結婚~②お坊さんによる恋愛法話

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